神武天皇即位紀元 - Wikipedia

神武天皇即位紀元

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神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)は、初代天皇である神武天皇即位したとされる年を元年(紀元)とする、日本紀年法である。

略称は皇紀(こうき)という。外にも、皇暦(こうれき)、神武暦(じんむれき)、神武紀元(じんむきげん)、日紀(にっき)[1]などともいう。年数の英字表記では、「Koki」や「Jimmu Era」などといい、皇紀2660年を「Koki 2660」「Jimmu Era 2660」などと表記する。紀元節(現在の建国記念の日)廃止までは、単に「紀元」と言った場合には、神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。

西暦2010年は、神武天皇即位紀元(皇紀)2670年である。

目次

[編集] 概説

神武天皇即位紀元は、キリスト紀元(西暦)より660年大きな値(キリスト紀元X年+660年=神武紀元Y年)となる。このずれは年により変わることは無く一定である。例えば、西暦2010年は皇紀2670年となる。

皇紀の使用は、江戸時代後期の1840年代から1860年代にかけて、藤田東湖など国学者が用いた事が始まりである。当時の国学者は、アヘン戦争が勃発した西暦1840年を「紀元2500年」というように呼んでいた。国家の紀元を神武天皇の即位に求めることは、『日本書紀』に親しむ国学者の一般的認識であった。しかし、政府の公文書は干支元号を併用しており(例:天保11年庚子[西暦1840年])、皇紀は使用されなかった。

戦前の日本では、元号の外に皇紀がよく使用されており、単に「紀元」というと皇紀を指していた。但し、戸籍など地方公共団体に出す公文書や政府の国内向け公文書では、皇紀ではなく、元号のみが用いられていた。戦前において皇紀が一貫して用いられていた例は、国定歴史教科書である。

戦後になると、単に「紀元」というと西暦を指す事が多い。また、現在では、皇紀を見る機会はほとんどなく、政府の公文書でも用いられていない。しかし、公式に廃止されたわけではなく、閏年の置き方に関しては、神武天皇即位紀元を元に決めた勅令が根拠となっている(閏年ニ関スル件、明治31年[皇紀2558年、西暦1898年]5月10日勅令第90号)。

その他にも、一部の日本史日本文学などのアマチュア愛好家・知識人神道関係者、全日本居合道連盟などが使用している。

アメリカ中央情報局(CIA)のWebページにある"The World Factbook"(各国要覧)の日本の項目[2]には、"Independence: 660 BC (traditional founding by Emperor JIMMU)"とされている。

神武天皇は実在の証明が困難であり、また古墳の出現年代などから考古学上はヤマト王権の成立は3世紀前後であるとされているため、神武天皇が紀元前660年に即位したことが事実であるとはあまり考えられていない。考古学的には、この時期は弥生時代前期にあたるが、古くは縄文時代晩期とされていた。

[編集] 制定

明治5年旧暦11月15日(当時の日本の太陰太陽暦天保暦で、太陽暦グレゴリオ暦では1872年12月15日)の太政官布告第342号により定められたもので、明治6年(1873年1月1日の日本における太陽暦採用と同時に施行された。

太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典(明治5年太政官布告第342号)[3]
今般太陽暦御頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被為告候為メ来ル廿五日御祭典被執行候事
但當日服者[4]参 朝可憚事

[編集] 紀元前660年となった根拠

干支は60年周期で定期的に繰り返すので、簡易に計算できる。そのため、神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の編年から遡ると紀元前660年に相当する。

明治維新後の1870年代初期に歴史学者の那珂通世が、『日本書紀』はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説を採用しており、推古天皇斑鳩を置いた西暦601年(辛酉年)から逆算して1260年遡った西洋紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた[5]。これは煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)ということに因む。

辛酉年の春正月の庚辰に、天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇の元年とす(「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条)。

[編集] 皇紀2600年記念行事

紀元二千六百年記念行事」を参照

「ゼロ戦」という通称で知られている大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機」は、この皇紀2600年(西暦1940年)に採用されたことに因んだ名称である(軍用機の命名規則により、制式名称は皇紀の下2桁を冠する規定による)。大日本帝国陸軍の場合、同年制式採用兵器の数字は百式重爆撃機一〇〇式司令部偵察機一〇〇式輸送機など海軍とは異なり、零ではなく百(一〇〇)としている。

皇紀2601年(西暦1941年)に陸軍に採用された戦闘機一式戦闘機(通称)としている。

[編集] 戦後に皇紀が用いられた例

[編集] 皇紀と安田生命保険

安田生命保険(今の明治安田生命保険)は、1970年代個人情報管理のシステムを構築することになった。その際システムの担当者は、20数年後に生じるであろう2000年問題をすでに予測していたのか、あるいはシステム上で都合がいいからなのか、「年」の処理に西暦や元号ではなく皇紀を使用した[6]。そのことにより、安田生命保険は2000年問題を(皇紀の下2桁が00になるのは2040年なので)40年先送りしたとされる。

[編集] インドネシア独立宣言文

1945年8月17日インドネシア独立スカルノおよびハッタによって宣言された。

日本軍政下のインドネシアでは、皇紀が使われていた(元号は用いられてなかった)。この為、その独立宣言文の日付は、既に日本がポツダム宣言を受諾していたにも拘らず、皇紀(2605年)の下2桁で記載されている。

[編集] 類似の紀元

日本の皇紀以外にも、西暦やイスラム紀元と異なる独自の紀元を立てたり、あるいは古くからあったものを西暦に替えて使った事例がある。以下はその例。現在では使われていないものも多い。

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

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  1. ^ 東方年表など
  2. ^ CIA - The World Factbook -- Japan →Government
  3. ^ 内閣官報局編『法令全書』、国立国会図書館・近代デジタルライブラリー
  4. ^ 「服者」(ぶくしゃ)とは、近親が死んだために、喪に服している者のこと。
  5. ^ 『日本書紀(一)』補注(巻第三)一八 400頁
  6. ^ 天声人語 朝日新聞1999年3月頃[いつ?][要検証]

[編集] 関連項目

ウィキソース
ウィキソース閏年ニ関スル件の原文があります。

[編集] 外部リンク


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